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12月 27

非モテとは何か。非モテとは、
・(自己認識)としてモテず
・かつそれをアイデンティティとしている
人たちの総称である。
では、ただ、非モテという概念にもそれなりの歴史があり、その中で非モテという概念は変化し、拡散し続けている。それを理解するにはまずその歴史を知るべきであろう。
■非モテの歴史
非モテという言葉、それ自体はいつ生まれたものだろうか。単純にモテない、恋愛できない、という人というのはいつの時代にもいたし、それを取り上げたエンターテイメントもそれこそ遥か昔から作られてきた。

非モテや童貞といった話でよく話題に上る伊集院光やみうらじゅんといった人達の童貞の自虐芸というのもその一つだ。そのころはまだ「非モテ」ではなく単純に「童貞」と呼ばれている。ただ、ここで問題なのは、彼らの周りに、(意識してやったかはさておき)D-1層とでも言うべき人々が結果的に成立したことだ。つまり、伊集院のオールナイトニッポンやOh!デカナイトを聞いてちょっと変なものや変わったものを観察して面白がる(そして、究極の観察対象は「自分自身」だ)類の人間が集まり、それがある種の購買層として認識されるようになる。時期は前後するが、こうした「D-1層囲い込み戦略」は2002年彼らの著作、「D.T.」で一応の完成をみる事になる。
それはともかくとして、「D-1層」がバブル最盛期からバブル崩壊にかけて準備されていたということ、そしてその創始者達はどちらも10代で童貞卒業している事には注目する必要があるだろう。彼ら自身は童貞で困るとか、怒るとかそういったことはあまりなく、あくまでもネタであり芸であった。もっと言えば商売である。それを面白がるか不誠実だととるかは人次第であるが、ただ、ある意味で童貞的マインドを代弁してくれたという面は否定できない。
ただし、商売が成立したのはあくまでもその周りの限られた部分だけであった。
ラジオや雑誌といったマスメディアにおいては(それすら非常に限られた範囲だが)長い間、それがひたすら再生産され続けられることになる。
そしてそこからこぼれ落ちた人々はインターネットに集まることとなる。インターネットは公的であり私的な空間だ。つまり各個人が何のフィルターもかけずに勝手に発信したいことを発信できる一方で、それを世界中に発信することができる。そして、初期ネットの一部にあったオタク=サブカル的な雰囲気。
テキストサイト界隈の一部で「非モテ系」と呼ばれるようなサイト群が生まれ始める。

■そしてインターネットへ
ネットでの「非モテ」の歴史は意外なほど長い。今現在確認されているネットで「非モテ」という単語が使われたの最古のものは1998年前後にまで遡るのだけども、その当時の用法としては単純に「モテに非ず」という意味において使われていた。そして、その後のテキストサイトの興隆期~ブログブーム前夜においても、基本的にはこの意味の延長として使用されていた。
つまり、ここに至るまで非モテというのは自虐芸の一種であるという事にご注意いただきたい。
いわゆるブログブーム以後に現在の意味での「非モテ」が成立したわけだが、この時点から「非モテ」の意味は大きく変わる事になる。
冒頭に書いた非モテの定義、
・(自己認識として)モテず
・かつそれをアイデンティティとしている
に加えて、
・(自己認識として)社会からの疎外感と(大小はともかくとして)それに伴う怒りを感じている
というのがブログブームを経た「新しい」非モテの概念である。
つまり、
「恋愛が出来ない/したくない事に世間があれこれ言ってくる事に対しての異議申し立てをし、かつそれを行う事がネット上のキャラ付けになっている人」
というのが非モテである。もちろん、これ自体は恐らく良いことでも悪いことでもない。
ただ、この時点で非モテがある種の(ネットでの)攻撃性/先鋭性が強化されていることには注目する必要がある。これは「童貞」や(初期の)「非モテ」とはまったく違うことである。もちろん、もとから「毒」はあった。ただし、それは芸であり商売のためのものであった。
では、この変化はなぜおこったのだろうか。

■ロストジェネレーションに生まれて
話はネットからリアルに移る。リアルの世界では90年代後半から2000年代にかけてバブルが崩壊し、いわゆる「失われた10年」が始まっている。就職氷河期の採用試験で企業から当時の学生に求められたのが「コミュニケーション能力」であった。インターネット上では「全てを解決する魔法の能力」と呼ばれているこの能力、問題は恐らくそれを求めている採用側自身が「コミュニケーション能力」がどんなものなのかわかっていないということなのだが、結果的には学生の時に目立っていたり、すごいエピソード(それが果たして会社に入社した後でどれだけ役に立つのかは誰にもわからない)を作った人間が受かり、そうでもない人たちは就職できずそこから落ちこぼれてしまうことになる。ロストジェネレーション世代のこれが恐ろしいのがこの就職時点での成功・失敗がどうやらその後の人生において挽回不可能なほどの格差になりそうなところだ。問題はいままでと違い、ここでの差異が、すでに生きていけるかどうかさえ不確かにしてしまうことだ。 (人生で)最初から勝っていた人間が勝ち続け、一度でも負けた人間は負け続ける、この世界観の是非はともかくとして、ロストジェネレーション世代、かつその中でも貧乏くじを引かされたような人間の一部にはこの世界観が共有された。

そして、(そんなものがあれば、の話だが)初期ブログ論壇の担い手の多くはこのロストジェネレーション世代である。こうして「怒り」の下地は作られた。だが、非モテ成立のためにはもう一つの条件が必要だろう、つまり「恋愛資本主義の強化」である。

■恋愛資本主義とはなにか
恋愛資本主義という言葉自体の元ネタは恐らくTVバラエティの「カノッサの屈辱」で放送された「デート資本主義の構造」であろう。ホイチョイプロダクションズがさすがなのは「カノッサの屈辱」が放送された1991年時点ですでに恋愛は資本主義的、つまり金銭の有無によって恋愛が決まるということをすでに指摘していることである。さかのぼればそれはずっと慎ましやかなものだったということも。
バブルはその後崩壊した。ただ、それで物が売れなくなってしまうのは困る。
だからこそ純愛だモテだスキルだと様々な形で皆が他人を恋愛ゲームに参加するように煽り続けた。同時にそれができない人間や興味の薄い人間には、それなりにゲームに参加するように強制した。
これは、誰が悪いという問題ではなく、システムのシステムの問題である。だが、私たちにもそのシステムを求める理由がある。つまり、私たちはもはや恋愛ぐらいしかすることがないのだ。
私たちは人間として生きている以上、何かで「いきいき」しなければいけない。テレビを見たり、本を読んだり、ゲームをしたり。でなければ退屈で死んでしまうだろう。
ただ、私たちにはもうすでに征服するべきフロンティアも打倒されるべき帝国も憧れのアメリカン・ウェイ・オブ・ライフもない。そして、私たちの前の世代をあんなにも「いきいき」させていた仕事すら、私たちを「いきいき」とさせてくれない。まさに前の世代が「仕事」に縋りつきつづけるが故に。
世の中でたった一人の異性が自分を認めてくれ、しかもセックスという快楽とその結果、さらなる駆動源たる「家族」まで準備してくれる。なるほど、恋愛ほど強力な自己承認ツールはない。だから世の中のほとんどの人々は恋愛していたいし、できるならゲームに参加したい。ただ、問題はすでにゲームの掛け金が高くなりすぎてほんの一握りの人間しか勝てなくなってしまっていることだ。
そして「まともな社会人なら結婚ぐらい…」なんていう社会規範だけが残った。
かくしてインターネットで非モテが生まれることになった。

■非モテとケータイ小説
インターネットに存在する非モテはすでに自虐芸ではない。彼らは本気で怒り、憤っている。そしてそれを「リアル」だとして支持する人々もいる。かくいう私自身もその一人だ。スクールカーストだ、脱オタだ、恋愛資本主義だ、クリスマス粉砕だ、テロだ、ヒットリストだと今日もインターネットでは様々な言説が飛び交う。大前提として、私はそれがその人の体験から導き出された憤りなりなんなりの感情であることは全く疑ってはいない。
一方でそれが全く分からない人も、支持する人と同じか多いくらい存在している事も理解できる。
ただ、それは私にとってケータイ小説の陳腐な描写が全く「リアル」とは思えないのと同じだろう。
ケータイ小説の「レイプ」やら「ドラッグ」やらの一体どこがリアルなのか私にはまったく理解できないのは私が「女子高生」なり「DQN」という圏域に属していないからだ。
つまり、それが「実際に起こった」事かどうかはさして問題ではなく、その圏域で流通する世界観でもって「本当にありそうなこと」だと感じられる事が書かれていることが「リアル」なのだ。
「レイプ」が実際に起こったことかどうかはどうてもいいのと同様(もちろん、冒頭に「本当にあったことです」と書いておくのはマーケティングの鉄則だ)、「スクールカースト」や「テロ」が本当にあるかどうか(起こすかどうか)は大した問題ではない。
だが、それでいい。もうすでにこの世界は細切れの圏域に分かれ、私たちは「私にとって都合のいいリアル」だけを選んで世界観を作っているのだから。島宇宙だろうがなんだろうが、もう誰も客観性など求めてはいない。ただ、そのコンテンツの射程がどこまで届くか、そもそも届ける必要があるのかどうか、問題となるのはそれだけだ。
ならば女子高生という圏域の住人にとっての「リアル」がケータイ小説であればロストジェネレーション世代のネットユーザーにとっての「リアル」が非モテであったとしても何の不都合も問題もない。それに、個々人の人生の責任、誰かが過去・現在・未来において非モテである責任なんて誰もとれないのだから。

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